トップ > 特別研修情報 > 「総本山醍醐寺・ジーライオングループ幹部社員研修会」開催報告
世界遺産・総本山醍醐寺は874年の創建以来1100年余、上醍醐と下醍醐を併せて200万坪の広大な寺域に7万点を超える日本一の国宝と多くの文化財が生き続ける、まさに日本の文化と祈りの聖地です。忙しく日々の仕事に専念しておられるジーライオングループの幹部社員方々にとって、醍醐寺での一期一会の研修は、時空間を超えた日本のこころと文化に抱かれ、やわらかに自分を見つめ直す貴重なひとときであったと存じます。
研修の1日目は、僧侶の案内で境内を巡り、醍醐寺の歴史や建物、寺宝の由来等についてお話を伺い、三宝院や霊宝館では国宝、重要文化財について僧侶から説明を受けながら拝観させて戴きました。三宝院は、建造物の大半が重要文化財に指定され、中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。お庭には、秀吉が聚楽第から運ばれた藤戸石があり、阿弥陀三尊を表しています。歴代の武将に引き継がれたことから「天下石」といわれています。お庭の設計には石の配置等すべてに意味があることを学ぶことにより、歴史や今日まで伝えられてきた風景、伝えてきた人々の心などを深く感じることが出来ます。
霊宝館における数多くの国宝や重要文化財を拝観すると、これまでの幾度となく直面されてきた困難な歴史の中で大切に伝承されてきた歴史の重さが伝わります。どのように人々に大切にされてきたか。今日まで綺麗な状態で受け継がれてきた理由は、受け継ぐ人々が「そのもの」だけではなく「心」と「思い」をしっかり受け継がれてきたからではないでしょうか。「心」の在り方の大切さをより深く考える体験となりました。
壁瀬宥雅執行長や仲田順英執行・総務部長にご法話を戴き、仏教とは何か、どういったことを大切にしているのかを学びました。日本の仏教は、自分のためだけではなく、周りの人のことも考える教えです。自分の利益だけを優先するのではなく、他者のことを考え、見返りを求めず行動することが大切で、その利益は巡り巡って還ってくる、人のためを思うことこそ自分を幸せに導く道ということを教えて戴きました。その後も僧侶も交えたグループディスカッションを通じて、様々な意見交換をさせて戴きました。
夕食は、精進料理を戴き、食事はただ食べるだけでなく、食事の中にも祈りの心をもって戴くことを教えて戴きました。「食事五観文」という五つの教えは、当たり前に毎日食べている食事も、出された物一つ一つに感謝し、他の命を戴いていることに感謝し、大切に戴きましょうという教えと教えて戴きました。この心を「いただきます」という言葉に込め一口一口噛みしめて戴かなくてはなりません。
毎日当たり前にしている行為でも、生きるために日々の小さなことにも感謝するという心を改めて実感出来る時間となりました。この心は、毎日を生きていく中でとても大切なことで、心の中で常に考え続けなければいけないことではないでしょうか。
夕食後写経を行い、翌日の柴燈護摩のために、添護摩木にひとりひとりが自分の願いを書きました。自分の願いを書くことで、過去の自分を見つめ今、未来のために何をすべきか、1年後の自分はどうありたいかについて、真摯に考える大変貴重な時間になりました。
2日目は朝からお勤め・写経奉納を行い、その後、上醍醐の登山を行いました。約1時間の登山で醍醐寺開創の地である上醍醐に辿り着きます。上醍醐は自然と歴史と祈りに包まれた「醍醐味」を感じることの出来る場所です。山頂には、国宝や重要文化財に指定されている薬師寺堂、清龍宮拝殿、開山堂、如意輪堂、また五大堂等数々の堂宇が建ち、一千年有予年の祈りの伝統を肌で感じることが出来ます。
普段とは違う空気の中、登山をすることによって、より心が引き締められ、醍醐寺の持つ歴史の奥深さ、受け継がれてきた祈りの心を肌で感じる体験となったのではないでしょうか。
下山後の昼食の後は、特別法要の柴燈護摩(添護摩木奉納)を執り行って戴きました。僧侶の方々が着替えられ、列を成して御法要に向かわれる姿は、昨日拝観した醍醐寺とはまた違い、ここが「祈りと修行の聖地」であることを改めて感じる時間になったと共に、普段の醍醐寺では感じることのできない、より厳かで大変貴重な体験をして戴けたのではないでしょうか。この特別法要の柴燈護摩は今回の研修で特別に執り行って下さった御法要であり、柴燈護摩に願いを込められたおひとりおひとりのこころと身体で感じられたことが、折に触れ思い起こされることと思います。
他者や日々への感謝、思いやりの心を持つ大切さを改めて醍醐寺に教えて戴きました。仕事で他者と向き合う時は、表面だけで取り繕うのではなく、心の在り方も大変重要なことだと改めて教えて戴きました。今後の日々の仕事と生き方において、研修で学ばれた「祈りの心」を常に持ち、感謝を忘れず他者へ接し、日々修行の気持ちでよりよく生き、未来を切り拓いていかれることを祈念申し上げます。
仏教の根本的なお話をさせて戴きたいと思います。皆様、仏教、お寺というと何を想像されますか。大抵、お葬式やお墓といったイメージを持たれる方が多いかと思います。日本では江戸時代、区役所にあたる仕事をお寺が行っておりました。檀家制度等によってお寺は発展してまいりました。そういったところからお葬式やお墓のイメージを持たれているのではないかと思います。
本来、お釈迦様は死んだ時にどうするかとはお説きになっておらず、生きるためのことを説いていらっしゃいます。今回お話しさせて戴くことにより、仏教イコールお墓というイメージをリセットして戴ければと思います。
お釈迦様の教えは生き方の教えです。仏教には「般若心経」というお経がございます。「般若心経」の最初に「仏説摩訶般若波羅蜜多」という文がございます。こちらが仏教というのがどういうものかということを99%説明しております。
まず、「仏説」とは仏が説いたという意味です。何を説いたのかと言いますと「摩訶般若波羅蜜多」です。「摩訶般若波羅蜜多」は全て梵語です。摩訶不思議やマハラジャといった言葉がありますが、「摩訶」とは大きいという意味です。「般若」というのは般若知といいまして、仏の智慧、悟った智慧ということを表します。これは音写(おんしゃ)といい、梵語をそのまま漢字に置き換えて使っております。「波羅蜜多」というのはお彼岸に至るという意味になります。まとめますと「彼岸に至る大きな智慧を説いた」という意味になります。
仏が説いたといいますが、仏とはお釈迦様のことです。お釈迦様とはシャカ族の王子様なのですが、王城の外を見れば子どもが餓死している、如何に栄華を極めた人でもいつかは老いて亡くなっていく。この人生の無常とは何か、真理とは何かと考えるために、王城を出られました。山に籠られてありとあらゆる難行、苦行をされましたが答えは得られませんでした。そして人里に戻って来られ、菩提樹の下に座られた時に村の女性にスジャータという飲み物を貰い、その時これが真理だということに気が付かれました。それから、その日に悟ったことが本当に正しいのかと確証され49日目に確信されました。この悟られた心理を基に説法を説かれました。
お釈迦様の教えは人によって違います。これを待機説法と申します。お釈迦様がいらっしゃる間は、お釈迦様に聞けばよかったのですが80歳でお釈迦さまが亡くなられた時、お釈迦様の教えを受けた10人の弟子と沢山の人が集まり「結集(けつじゅう)」を開かれました。そこでお釈迦様の教えを話し合い、書留めたものがお経の始まりです。すなわち、お経というのは全て仏が説いた仏説というわけです。その中で膨大な教えが出来、規律を守っていくグループと論理を立て考えようというグループが出来、前者が小乗仏教、後者が大乗仏教となり、小乗仏教は「ミャンマー」「ビルマ」、大乗仏教は「チベット」「中国」に広がっていきました。
小乗仏教では、僧侶は僧房に籠り読経をし、決められた時間に托鉢に出て村の方々から食べ物を戴きます。決められた通りのことをします。大乗仏教では、大きな伽藍(お寺)を立て沢山の人に来て戴く、そこで色々なことを行っていきます。どこが違うかと申しますと大乗仏教とは一般の方々のための教えで、小乗仏教はプロの僧侶のための教えです。
「波羅蜜多」とは到彼岸ということですが、迷いの世界と川を挟んだ向こうの悟りの岸に到達しずっとそこにいるというのが小乗仏教、素晴らしい岸に皆さんをお連れしたいと思う考えが大乗仏教です。
如来と菩薩はどのように違うかと申しますと、悟りの岸に一度着くと如来となります。悟りの岸に辿り着き、皆を連れてこようと戻ってくる人を菩薩といいます。向こう岸に行きたがらない人を強い力で連れていく人を明王、さらに強い力で連れていく人を天部といいます。この図面が「波羅蜜多」という言葉になります。
大乗仏教では「六波羅蜜の行」というのがございまして、布施、戒律、忍耐、精進、禅定この5つが出来れば悟りの境地の地位を得られることが出来ます。布施の本来の意味は、今自分の前にいる方にとって必要なことをさせて戴く、そのことによって智慧を得ることが出来ます。従って、仕事をされている方は利益関係なく、お客様のためになると思ってする行為は布施行になります。心の持ち方が何より大切になってまいります。
「般若心経」の最後には「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦」とありますが、「羯諦(ぎゃあてい)」とは行きましょう、「波羅羯諦(はらぎゃあてい)」とは他の岸へ行きましょう、「波羅僧羯諦(はらそうぎゃあてい)」とは皆一緒に行きましょうという意味になります。一人で行くのではなく、皆一緒に乗せて行くということで、人のために自分が動くのだという意味になっております。
「般若心経」を使いお話をさせて戴きましたが、皆さんが働かれるときに皆が良くなってこそ自分が良くなる「波羅蜜多」の思想を根底にもって仕事をして戴き、素晴らしい企業にして戴ければと思います。
醍醐寺には国宝・重要文化財をはじめとして、10万点以上の寺宝を伝承しています。それらを修理し、次世代に伝えるためには多くの費用が必要です。
お金を貸してもらうにも担保がないのでリーマンショック以降は大変厳しい状況です。その中でどうやってお金を生み出していくかを考えていかなければいけません。
私は大学の修士号まではとっておりますが、経営管理については全く学んでおりません。最初、醍醐寺に来たころは人事管理をしておりました。どうやって運営していくか考えた時、最初に就業規則を作ったのですが、お寺を会社にするつもりかと周りから沢山の非難を受けました。ですが、組織として作らなければと考えた時に、仏教の中に答えがありました。経典の中に答えがあり、哲学的なことや自然科学的なことも沢山書かれておりました。昔は優秀な方がお坊さんになる時代でした。勉強する機会が沢山あり知恵を沢山学べました。経典の中には、医学、政治、天文学、宇宙論といった沢山の知識が含まれていました。
仏教学は人間学を説いたものです。そういった思想や考え方に私たちの心のよりどころになるところがたくさんあります。ただ一つ言えることは、仏教にはこれを信じれば正しいといったことは一つも書いておりません。ヒントは沢山書かれていますがその中から自分の道を見出していきなさいというのが仏教の教えです。仏教には沢山宗派がありますが、仏教の教えというのは人の数だけあります。なぜかというと、自分自身で見出していく道、それが仏様の教えだからです。
仏教はお釈迦様が開いた教えですが、人間とはどういう存在だろうかというところからスタートしております。人には沢山の苦しみがある。四苦八苦いう言葉がありますが、つまり人というのは沢山の苦しみを持っているのだということです。それを理解することに仏教のスタートがあります。
仏教の精神の基本は「苦」と「平等」です。人とはどういう存在かということを分析したものが仏教で、仏教というのは分析学です。
人間というのは必ず亡くなります。死というのは平等にやってきます。生老病死の苦しみとどうやって向き合っていくかを考えるために分析が必要になります。苦しみは皆持っているものなので、自分自身が正しい行いを実行することが大切で、清らかに行動しているかが大切だと説かれています。密教だと加持(かじ)をするといいます。三密(さんみつ)とよばれる身、口、意を加持すること、つまり体と、口と、心をいつでも清らかにしておくことが大切だと説いています。
コンサルタントの本を読まなくても仏教の教えだけで十分に対応出来ます。人やどんな生き物も命を奪わなければ生きていけません。当たり前のことを、当たり前に思い過ぎてしまっているのが今の状況です。ですが、日本には「いただきます」「ごちそうさまでした」という感謝の言葉を口にする習慣があります。宗教的な行為ではなく、命に感謝するというとても良い行為です。目に見えない命に感謝する心を、誰にも強制されることなく子どものころから教わっています。
宗教とは目に見えない恐れから生まれます。理不尽なこと等、なかなか心で解決できないことを神様、仏様にお願いして解決していくそれが宗教だと思います。
信仰対象の神様、仏様はすごく大事な存在だと思います、しかし日本人はご先祖様や、月、太陽、自然現象、目に見えない色々なところに神様、仏様がおられ、そのことに感謝しましょうと習ってきています。自分一人ではなく、目に見えない沢山の命があり、その結びつきによって私たちは生かされている、そういった考えが仏教の教えであり哲学です。それは縁という言葉で説明されています。
生きとし生けるものたちと色々な縁を結んで生きています。仏教は縁起説です。縁起とは、命の結びつきという意味です。命というのは、全てと結びついていますから一つの命も無駄にはできない、一つ一つの命が大切なのです。
他の利益を考える「利他」、自分中心ではなく周り人のことを考える、そういった考えによって清い心、清い行動をすること、自分自身が生きる道の中で、他の存在、人との関わり合い、たくさんの命を大切にすることによって心が豊かになっていきます。体は衰えていきますが、心は豊かに成長していくことが可能です。そのためには、自分自身を見つめなおすことが必要です。
色々なことが便利になってきましたが、人と人との関わり合いというのは昔から進化していません。進化する必要はないのかもしれません。私たちは人である以上、色々な命を奪い生きています。そういったことを忘れ自分という認識ばかりが大きくなればなるほど、他の存在は消えてしまいます。消えてしまうことによって、争いが起き、人を殺めてしまうということが起こるのではないでしょうか。どんな人にも命の大きさに差はないはずです。だから、命の繋がりが大切になってくるのではないでしょうか。
正しいという認識は非常に難しいことですが、自分が本当に正しいことをしているかは自分自身にはわかりません。法律という言葉がありますが、法とはみんなで決めてみんなで守ること、律とは自分自身で決めて守ることです。律というのは守るのは難しいことですが、これをしないと人は壊れてしまうのではないのでしょうか。お坊さんはお肉や魚を食べないと思っている方もいらっしゃると思いますが、自分の中でルールを決めて食べることもあります。基本的には乞食(こつじき)ですので戴いたものはなんであろうと食べなければいけません。
「五戒」というのが仏教の言葉にあります。その中に不殺生戒という言葉がありますが、むやみやたらに命を奪ってはいけないという意味です。不偸盗戒とは、人のものを盗んではいけないという意味です。当たり前のことですが、自分の利益や会社のため、国のためと思うと人は行動出来てしまいます。そういったことをしないためにも自分の中でルールを決めることは大切です。人のため、国のためと思って人を殺してしまうこととがあります。その中で一番いけないのが戦争です。これは一部の人の利益のために人々が騙されているのです。これを気が付かなければいけないのです。絶対どんなことがあっても人を殺してはいけないのです。日本人はそれをもっと言えなけなければいけません。力で力を絶対に制することは出来ません。
色々な建前があって一番心が許されるのが信仰です。神様の為に人が殺せる、こんなことはあり得ません。命は平等、命を大切にしなければいけないとどの宗教も言っています。力を持ちたい人がうまく利用しているだけなのです。純粋だとそちらへ行ってしまいます。私たちのおじいさんやおばあさんも戦争に行って人の命を殺めていました。それは家族を守るためや国を守るためでした。それがいけないことは当たり前なのです。今私たちはなんて残忍なのだ等といい、犯罪者だといって裁いたりしていますが、その当時の事情や色々なことがあったのですから今の人がとやかく言ってはいけないと思います。その当時の人は一生懸命生きていたのですから。今の人たちがその頃のことを今の価値観で良い悪いととやかく言ってはいけないと思います。その当時の生きた人たちの命、失われた人の命にとても失礼なことだと思います。そうでなくても沢山の命が失われています。
不邪婬戒というのは、邪な愛欲今でいうと不倫のことでしょうか。人の心を裏切るような愛欲、人の道に反した愛欲におぼれてしまってはいけないということです。不飲酒戒というのは、お酒などを飲んではいけないということです。私たちも全く飲まない訳ではありませんが、そういった期間がございまして、行をしている時や研修をしている時は飲みません。普段は多少お酒を楽しんだりはしています。これらも、自分自身がしっかりと決めて守るべきことです。
仏教というのは全てを否定している訳ではありません。ある程度の欲望を肯定しています。そこで自分自身の平穏を保ってブレーキがかかるかどうかというのが大切です。ブレーキの掛け方は人それぞれかと思いますが、そこで考えなければいけないのは自分自身を見つめて、どうやって私たちは生きてきたのだろうかと思うと自然とブレーキがかかるはずです。今はそこを考えないでリセットできるのだと考えてしまう、そう思ってしまうと何でもできてします。
私たち大人が頑張らないと、子どもたちは豊かな心を持てなくなってしまうのではないでしょうか。大人が正しい判断ができなければいけないということです。正しい判断をすることは難しいですが、拠りどころとして、沢山の結びつきがあるのだということと過去を正しく認識することが大切になります。現在・過去・未来これを「三世(サンゼ)」といいます。「せつない」という言葉がありますが、これは「刹那」という仏教の時間の単位、ほんの一瞬のことです。この刹那の積み重ねが時を作っています。どんどん時は移り変わるので「切ない」のです。そして常なるものは何もない、形あるものはいつか無くなってしまいます。毎年同じことの繰り返しに思えますが、同じものはなにもありません。これを「無常」といいます。心も、体も全てのものは移ろいゆくのであまり執着(しゅうじゃく)しないでおきましょうというのが仏教の考え方です。その執着が苦しみを生んでいきます。執着しないということが「無我」です。
一生懸命、今を生きなさいというのが仏教です。未来のために、過去を今、一生懸命分析しましょうという考えです。こういうことをお寺のマネジメントに当てはめていくと、とてもよく当てはまります。
醍醐寺は拝観を始めたのが戦後で、一般的になったのがここ20年くらいの話です。昔は、庄園からお米が上がってきてお坊さんたちが養われていました。醍醐寺は檀家がないので、信者さん所謂五大力さんからの収入だけでした。お坊さんが家を廻り、法を説いて五大力さんのお札を配り収入を得ていました。それと拝観による収入でした。人口も頭止めになり、信仰収入も厳しくなってきた時に見直したのが拝観者数です。拝観者を増やすためにブランド戦略を行い、今まであまり受けていなかったテレビの取材を受け、地元のメディアに広告費を払い紹介してもらいました。京都の中においても、醍醐寺を知っているが来たことがないという方が多かったですが、テレビの取材を受ける様になり拝観者数が増えました。
しかし、更に文化財を守り日本人の心、伝統を次の世代に伝える為にはまだ人を増やしていかなくてはいけません。こういった経営の柱を守る為に、どのようなことをすればいいか、未来の為に何をすればいいのか、過去を認識し未来についてしっかり今分析をする。これを忘れずにすることが大切です。
それでも文化財の修復や維持管理にもかなり費用が掛かります。今、収益事業と宗教事業を一体化して考えていけるように変えているところです。
ギブ&テイクは仏教としてはいけません。心がどんどん小さい方にいってしまいます。何かをした時に見返りを求めるようになってしまい、自分の思った程度の見返りを貰えないと不満が生まれてしまいます。お互いがお互いを助け合う精神、その場で見返りはなくてもいつか廻り廻って帰ってくる。すぐ自分に帰ってくるというのは難しいですが、いつか帰ってくる「廻向」(えこう)するという考えが大切です。
人は心で動いています。誰かのためにと思うと、力が湧いてきます。人のために何かをすることを「徳を積む」といいます。才能のある方や成功した方は腰が低い等、自分の力ではないということをよく判っていらっしゃいます。そういう気持ちがあるからこそ目に見えない努力が沢山出来るのだと思います。アーティストの方々も、自分の力で作ったものではないとよくおっしゃいます。何かが自分に力を与えてくれて作品を作り出している、そこに祈りや心が籠っているのだと思います。
私たちは人としていろんなものを戴いて生かされているというところに出発点を置いていくというのは、色々なことを判断していく中で大事なのではないでしょうか。
しっかり過去を認識して未来のために今何をすればいいか一生懸命考えていると、意外に良いアイディアや良い人との巡り合いがあるのではないでしょうか。それは、私自身の力ではなく醍醐寺を守ってきた何か大きなものの力があるのではないかと信じています。僧侶であるからではなく人としてそう思っています。やはり人は心で動きますので、そういう心で動いていればまた次の新しいご縁が生まれてくるのではないでしょうか。皆様方もこういったご縁の中で何か感じて戴ければと思います。
自分が信じて、しっかり判断したことに関しては、ひとときひとときを一生懸命実践していくというのが大切なのではないかと思います。そしていつでもそれを感謝の心として返せる場所があれば良いのではないでしょうか。皆様それぞれが正しく生きていく道を見出して戴ければ良いと思います、それはいつか必ず皆様の人生の中でプラスに働いていくと確信しております。
私共も、ジーライオン様に学びたいと思っておりますので、このご縁を大切にしていければと思っております。
今回の研修の2日間色々な思いで受けられ何か掴めた人もいれば、家に帰ってから思いつく人もいると思います。
私はどのようなことからでも学ぶのだという思いを持っております。転んでもタダでは起きないと言う言葉があると思いますが、たとえ何かで大きな損をしてしまっても(1億円損してしまっても)、それ以上の何かを学ぼうと思っていつもやってまいりました。
お寺への思いについてですが、私はどんな宗派だったとしても神様、仏様を拝む気持ちは変わらないと思っており、生きている私たちの為にあるのだと思っております。自分の力で解決したいのだけれど、自分ではどうしようもなく苦しいし時、お寺に行き和尚様にお話を聞いて戴いておりました。醍醐寺では有難いことに今回の研修のご縁だけで、何か困ったときには相談に来て下さいと言って下さいました。
護摩を焚いて戴く為に皆さんの願いごとを整理し文章にして考える、こういうことを願っているのだと神様の前で願って貰い、護摩焚きして貰えば、その願いは叶います。
私は、苦しい時にお墓に行ったり、お寺に行ったりして、今の自分はなぜ苦しいのかということを1時間も2時間もお墓の前で考え悩みを明確にします。これを突き詰めれば、どうすればこの苦しみから抜け出せるのかということが見えてきます。
私は、若い人に会った時にどんな夢を持っているのかを聞きます。夢を持って働いている人は応援したいと思います。すぐに夢を応えられなかったとしても、少なくとも1年後の自分がどうなっているかを決められていないと将来は見えてこないと思います。
1年以内に私は道をつけて、後の人に譲るということをしようと考えていますが、皆さんは今回醍醐寺に考える機会を与えて貰って1年後の自分について考えることが出来ましたか?
私たちの世代は年金を貰い75歳迄生きられ、過ごせば良かったですが、今生まれた子ともたちは105歳迄生きられます。100歳まで生きるのにどれだけのお金が要るのでしょうか。少子化で人口が減っていっている中、面倒を見る人がいなくなります。100歳まで生きると考えた時に80歳迄は仕事をしなければ成り立たなくなります。現代の子供たちはどのような人生設計を考えているのでしょう。今、1年先のことを考えるべきなのだと思います。
今日、醍醐寺で1年先の自分を見つめるということを教えてもらいましたが、人生100年計画で考えた時、20代は会社にお金を貰いながら勉強させて貰っていると考えるべきだと思います。20代で楽をしてしまうと、将来困ることになるのではないでしょうか。
弊社も65歳で定年を迎えたとしても、70歳80歳迄働ける仕組みを作らなくてはいけません。例えば、定年を迎えても運転の好きな方は車の輸送の際の運転の仕事、お話の好きな方はベテランの営業マンとして若手のフォローをする等の定年後も働ける会社にしていくことが今後大切になると思います。そこまで、皆さんが出来るような教育、皆さんのやる気が大切だと思います。
今日の学びで働き方、家庭生活も見直さなくてはいけないと思いました。
醍醐寺ではルールを守る、時間をきっちり守るということを1150年間やってこられました。時間には限りがあります。時間をきちんと守る為、用意する時間を十分に取られてしまいます。長い間続けようと思ったら、用意の時間をとり実際に決めた時間をきちんと守る、そのようなところが大切なのだと思います。そのようなところにも学ぶことが沢山あるとのではないでしょうか。
また、「自然」を守っていくということが大切で、朝には太陽と共に起きて、太陽が沈むと共に寝る、1150年続けるためには、朝方の生活にならなくてはいけない、自然に従って生きるべきだと思いました。
これから、先の長い人生もう一度改めて考えなければいけません。皆さんに今の間に、後輩を教えられるような、上司としての部下を育てる技術を身に着ける等、もう一度一から考えて欲しいと思います。
例えば、強制では無いですがこの機会に禁煙をされてはどうでしょうか。誰かに宣言しなければ出来ませんし、何か機会が無ければできないことです。余計なお世話かもしれませんが、体に毒を入れることを止めてみませんか。
今日教わったことから自分のこれからのテーマを決めて下さい。私は「無」というものをテーマに追及していきたいと思います。自分を足元から見直し、頭を真っ白にして1年後の目標を決め護摩焚きに挑んでほしい。そして一年後達成できたか検証出来ればと思います。
最後にこの場を借りて、皆様にお礼申し上げます。
この感謝の気持ちを、夢を叶えていく、悩み事を減らすということで返していければと思います。