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特別研修情報

「総本山醍醐寺・HRJ研修会」開催報告

1200年近い歴史を持つ京都の世界遺産・総本山醍醐寺様にて、2017年11月15日(水)に「総本山醍醐寺・HRJ研修会」を開催致しました。大変貴重な特別研修の一部をご報告させていただきます。

「総本山醍醐寺・HRJ研修会」を2017年11月15日(水)に1200年近い歴史を持つ京都の世界遺産・総本山醍醐寺にて実施致しました。
まず初めに今回の研修開催にあたり、岡田繁雄参与から醍醐寺に来られた方はお帰りの際の感想は2種類に分かれるというお話を戴きました。「良かった、綺麗だった、凄かった」と思われる方と、「心で何かを感じ、思い、今後の人生の糧」として戴ける方。今後の生活、仕事、人生を見つめ直すきっかけになるよう「心の研修」に取り組んで戴きたいとのお言葉を深く受けとめ、研修に臨ませて戴きました。

三宝院、霊宝館では国宝や重要文化財について僧侶にご説明を受けながら拝観させて戴きました。
建物の大半が重要文化財である三宝院は、特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園があり豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し自ら基本設計をされたお庭でございます。お庭に置いてある石一つにも意味や理由があり、それらを感じとり考えることで、より心に深く響く経験になりました。霊宝館に納められている数多くの文化財のご説明を受け拝観させて戴くと、これまでの幾度となく直面されてきたあらゆる困難の歴史と大切に伝承されてきた歴史の重さが伝わります。仏様はどのような意味を持ち、どのように人々に大切にされてきたか。今日まで綺麗なお姿でいらっしゃる理由は、受け継ぐ人々が「仏様そのもの」だけではなく「心」と「思い」をしっかり受け継がれてきたからではないでしょうか。

お食事では、僧侶の方々に大変温かいおもてなしを戴き、改めて人と人の触れ合い、心と心の触れ合いの大切さを学ぶと共に、他の命を戴いて生きていくことを噛みしめ、他者への感謝の気持ちを忘れてはいけないということを感じることが出来ました。
醍醐寺の歴史や時の流れの深さ、今日までに受け継がれてきた人々の心を学ぶと共に、仲田順英執行・総務部長のご法話や写経においては、日々の営みへの感謝や日常における心の持ち方、研修を受けた意味を考え行動することの大切さを学ばせて戴きました。
書いた写経を自ら三宝院の本堂である弥勒堂に御奉納させて戴く貴重な機会を賜り、澄んだ空気の中、気持ちがより一層引きしまる思いで御奉納させて戴くことで、何気ない日常に対する感謝の気持ち、他者への感謝の気持ちが自然と込み上げてまいります。

ご法話

仲田順英 醍醐寺執行・総務部長

境内を散策して戴き色々な方面から醍醐寺を見て戴けたのではないかと思います。
弘法大師空海の弟子である真雅僧正、その方の弟子である理源大師聖宝が醍醐寺を開かれました。仏教にも色々ありますが、歴史に残っている宗教は神の啓示を受けていきなり宗教を始めたわけではございません。
私たちが勘違いしてしまうのが「宗教」という言葉です。「宗教」という言葉は初めからあったものではなく後から出来た言葉です。「宗教」と聞くと、色々な事件のせいで危ないもの、アンタッチャブルなものという感覚があり生活から離そうしてしまいます。
人の命が平気で殺められる時代がほんの少し前までありました。悲惨な事件は起こりますが、他人事のように感じてしまいます。他人事に感じていてはいけないのです。

「仏教」「キリスト教」「イスラム教」という言葉も後から出来た言葉です。人を集めるためには、シンボルがあり、象徴があり、ポリシーがある、それと一緒です。仏教でいえばお釈迦様という象徴があって、仏教の教えがあり、そこに心を寄せるということが宗教というように捉えられています。そういった面も確かにありますが、それだけが正しいと思い、それを信じる世界観しかもたないことも、時代によっては大切でした。一神教の一つの世界を置くことによって統治しやすくしている時代もありました。突き詰めると喧嘩してしまうのは一神教である故です。一つの神様という概念を持つことにより生活しやすい、国が治めやすいのです。厳しい環境の中では諦めなければいけないことが沢山あります。また、理不尽なことも沢山あります。これを乗り越えるために人は心を整理しなければなりません。一神教は苦しい時代の時に、心を整理しやすい。ただ裏腹がありまして、神様を信じれば何でも出来てしまう、神様が許せば人も殺せてしまいます。そういった悪い側面もあります。そういったことが実際に今起こっていますが、神様が人を殺すことを許す訳などありません。なぜかというと、宗教の基は、見えないものへの感謝の心のはずです。人というのは、自分の力でどうにもならないことや、理不尽なことを色々な方法で乗り越えてきました。その時に、自然に対して恐れの心も持つけれども感謝をする、これが本来の宗教のあり方です。その象徴として、神様がいたり仏様がいたりします。私たちはなぜ生きているのかということを考えました、私たちの生きている世界は苦しみがあるということが出発点です。四苦八苦という言葉があると思いますが、これは仏教用語です。生老病死からは誰も逃れられません。誰しもいつかこの世から卒業しなければいけません。それは誰も逃れることはできません。もしかすると魂は輪廻しているかもしれませんが、それを証明できる人はいません。誰しもわからないことなのです。また病気にかからない人もいません。老いる事も当然です。生きていく中での苦しみがあります。
仏教は分析学です。人間を分析したり、世界を分析したりします。色々な存在の分析を行います。苦しみを乗り越えるためにはどうすればいいのかと存在の分析を仏教はしています。仏教は万能で、経済にも、経営にも、哲学にも、宗教にも応用できるくらい多岐に渡っています。経典とはそういうことが書いてあります。
人というのは沢山の命の結びつきによってできています。これを「縁起」といいます。仏教は実在論です。我々は今ここに存在していますが、色々な結びつきによって存在しています。その結びつきを大切にし、今この時を一生懸命生きましょうというのが仏教の出発点です。精一杯生きることを続ける「精進し続ける」ということが仏教の教えの基本です。
普段の生活が修行になります。日々の生活の中で命を見つめていく、そういったものが日本人の生活には誰からも強制されることなく入っています。仏教がお葬式だと批判されることがありますが、仏教は死に直面するわけで、それはとても大切なことだと思います。核家族になってしまった今、おじいちゃんおばあちゃんが目の前で死んであげることが出来なくなってしまいました。昨日まで身近にいた人が急にいなくなる、これは子どもにとってとても大切な体験です。子どものうちに死に向き合うことが大切なのではないでしょうか。向き合うことが出来ないまま大人になってしまうことは残念な事だと思います。
私たちは色んな命を戴き、結びつきながら生きています。一つとして無駄な命はありません。人と関わり生きていくことで人は変わっていきます。そこに縁の大切さがあり、心の営みが生まれていきます。我々は生物ですから命を奪って生きています。ベジタリアンといっても野菜の命を奪って生きています。誰一人命を奪わずに生きている人はいません。ですが、目の前に出てくるものは命が無いように見えてしまいます。
スーパーに行けば綺麗にラッピングされた物が売っていて命を奪っているという実感はないかと思います。日本にある、目に見えないものに感謝する「いただきます」「ごちそうさまでした」という言葉はとても大切なものだと思います。
こういった心が本来、宗教の基であり、それを私たちは「祈り」という言葉で表しています。「祈り」を持っていない人は成功することが出来ません。今は「祈り」を教えてくれる人が誰もいなくなってしまったのではないでしょうか。教育と宗教は結びつけてはいけないと思います、ですが教育の中から「祈り」をとってしまうことはいけません。「いただきます」や初詣、自然と生活の中で行うことによって「祈り」は文化になっています。初詣に行けば自分のことだけではなく一緒に行った人のことや家族の事人のことを一緒に祈ってあげる、それが日本の文化の中で大切なことだと思います。自分だけではなく、他の命に心を寄せて他の人に祈りを持つこと、私はそれがとても大事なことではないかと思います。それが「宗教」という言葉によってそれを教える機会が失われてしまったことが一番の問題ではないかと思います。
人に対する思いやりや思いというのはどんな立場にいても同じはずです、ですが自分の利益ばかりを優先してしまうと心が狭くなってしまいます。しかし、人の利益を考えるとそれは良い方向に向かいます。ギブ&テイクだと限界があります。見返りを求めてしまいそれが自分の思っているものと合致しなければ不満が出てきます。そうすると自分のものを守らなければいけないと考え始めます。それを執着(しゅうじゃく)といいます。
徳は巡り巡って返ってくるものです、ただ執着してしまうのでこれは私の物だ、これだけのことをしたのになぜ返ってこないのだろうと思ってしまいます。そう思っている時、鏡を見るとひどい顔をしています。これだけのことをしてあげたけど、今回は駄目だったなという時は鏡を見ると満足しているので絶対に良い顔をしています。鏡というのは、お化粧をしたり、外を見るための道具ではなく心の中を見る道具です。だから心が映し出されます。
「祈り」を込めて色々なことをすればそれは「祈り」によってちゃんと返ってきます。「祈り」を込めないと良いものは出来ないと思います。
命というのは限りがあります。ですが、心というのはずっと受け継がれています。色々な人から話を聞いたり、出会ったり、教えを学んだりして私たちの心は育まれてきたのだと思います。そういったものは受け継がれてきたものなのではないでしょうか。そして、受け継がれた心は必ず誰かに影響を与えています。受け継がれた心を途絶えさせてはいけません。グローバル化が進み色々な考え方が増えています。そこで怖いのが、自分は正しいのだという考えです。
私たち一人が出来ることは小さな小さなことかもしれませんが、それが本当はすごく大きなことで、その積み重ねが今の私たちを生んでいるのではないでしょうか。
私たちは一生懸命生き、いつまでも美しくあること、あまり執着せず人の為に一生懸命生きていくことがとても大切なことなのではないでしょうか。そこではじめて自分の利益が生まれてくると思います。何をもって利益と思うかは皆様の心の持ち方次第です。一瞬でもこれをして良かったなと思う幸せな瞬間がくればそれに敵うものはないかと思います。どうしても見返りは欲しいと思ってしまいますが、そういったものに執着をしなければ意外と美しいものに気が付けるのではないでしょうか。


「祈り」とは自分の為にするのではなく、他者を思いするものであることをお教え戴きました。「祈り」の心の大切さをより深く考える機会になったと共に、それを当たり前のように思える心の育み方の大切さ、また、日常に根づく「祈り」の心の文化を忘れず、しっかりと後世に伝えていくことの大切さを深く心に刻むことが出来ました。
醍醐寺での「心の研修」はマナーや接遇を考える上でも大切なことであり、表面だけを整えるのではなく、心の内側から相手のことを考えて接していくことを改めて深く考える機会となりました。この研修だけで終わることなく、研修を終えた後がスタートであり、「祈り」の心を常に持ち、日々の暮らしの中で深く考え心を育てていくことが、「心の研修」の意味だと考えております。
醍醐寺に戴いたご縁を大切に、今回の研修を醍醐寺とHRJのスタートアップとさせて戴ければ幸いです。

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